ブギーポップ・ナイトメア 悪夢と踊るな子供たち
1,愚を欺き、悪に迷い…… ③
*
……二人が帰っていく際、その後ろ姿にかすかな変化があった。首の後ろ──うなじの髪の生え際のところがぼんやり白くなっていた。白髪がわずかに、だが確実に増えていた。しかしそれを気にする者は誰もいない。
「あーあ、なんか疲れちゃったね。ねえ、昼食は外に出ない?」
南砂がソファの上で伸びをしながら言うと、北斗は苦笑して、
「いちおう、午後からも約束は入っているんだがな──まあいいか、キャンセルしよう。西風はどこがいい?」
訊かれた西風は窓の外を見ているところだった。そこには大勢の人々が行き交う世界が広がっている。
快晴で、燦々と降り注ぐ陽光の中で、あらゆるところがきらきらと光っている。それを眺めながら西風は、
「こういう日って、東梨は苦手だったよね。彼は曇りか、雨が好きだったから」
と呟いた。すると残る二人の間に、かすかな緊張が走った。
「…………」
「…………」
しばし無言の間が続いて、やがて南砂が吐息混じりで、
「そうね──傘も差さずに、濡れながら歩くのが好きだったよね、東梨は」
と言うと、北斗もやや憮然とした感じで、
「髪とか乱れても全然、気にしなかったよな。服が乾くまで平気で着続けたり。それで椅子とかも座っちゃうから、濡れるだろって注意しても、笑ってるだけだった──」
「私たちに言えたセリフじゃないけど、あいつこそ浮き世離れしてたよね、実際」
「僕らは彼のところにまで行けるのかな──なんだか、どんどん遠ざかっている気がするよ」
西風が二人に背を向けたままそう言うと、南砂が苛立ちを隠しもせずに、
「遠ざかんなきゃ駄目でしょうが。せっかくあいつが私たちを逃がしてくれたんだから。そうでなきゃ、私たちも今頃は他の〈サンタ・クララ〉たちと同じくフォルテッシモに殺られてたんだから、さ──」
「しかし──彼のレベルにはできる限り近づかなきゃならないだろう。永遠に追いつけないにせよ、僕らにはそうしなきゃならない〝負い目〟がある」
北斗は毅然とした表情で、ひとりうなずく。そこで南砂がぱんぱん、と手を大きく打ち鳴らして、
「はいはい、この話はここで終わり。今考えたってしょうがない。いいからさっさと出かけるからね。決めた。ランチは表通りのカフェテラスでサーロインステーキサンドよ。うんと濃いコーヒーも付けてね」
「重たくないかい?」
「私が食べたいのよ。ほらほら、さっさと出る!」
彼女は二人の少年を急かし立てて、ホテルのスイートルームから下に降りていった。
エレベーターからエントランス・ホールに出て──そこでちょっと不思議な現象が起きる。
子供たち三人が歩いていっても、そこにいる他の大人たちは誰も彼らの方を見ない。保護者もなしで大人しかいない空間に、明らかな異物が交じっているのに、関心が集まらない。
彼らはキーをフロントに預けることもせず、そのまま堂々と正面から出ていった。表は人通りも多いが、その中を彼らは優雅に、誰ともぶつかりも交錯もせずに、ゆったりと直進していく。
奇妙なことに、人々は皆、彼らの側に近寄りそうになると、その動きが微妙に遅くなる。どんなに早足で進んでいた者でも、彼らに近づくとスローになる。それは足だけでなく、視線の動きや、呼吸のペースまでそうなる。まるで時間の流れが変わっているかのようだった。
三人はまるで王者のように街を練り歩いて、目当てのカフェ&レストランに到着した。店は人気で、行列ができていたが、彼らはそれを無視して、勝手に空いているオープンテラス席に座ってしまう。
一瞬だけ、周囲の人々が訝しげな視線を彼らに向けようとするが──その姿を見た瞬間に、人々は三人のことを意識しなくなって、視線を逸らす。ここにそんなものがいるはずない、と突然に信じ込んでしまったかのように。
ウェイターがやって来て、なにか言おうとする──しかし、南砂がそいつの眼をまっすぐに見つめて、
「オーダー──いいよね?」
と言うと、相手の眼から光がすうっ、と消えてしまって、
「はい──」
と返事をしている。意志が吸い取られてしまったかのようだった。
三人はてきぱきとそれぞれの注文をする。ウェイターは機械的にそれを受け付ける。そして南砂は最後に、
「大至急よ──シェフに念押ししてね」
と言った。するとその指示通りに、他の客の料理がまだ全然出ていないのに、三人のところにだけ、先に料理が運ばれてきた。
「ご苦労さん──これはチップね」
と南砂は、たかが料理を運んできただけとは思えないほどの札束をウェイターに渡した。しかし相手は特に反応もせずに、ふらふらと戻っていく。
北斗がくすくすと笑って、
「あまり一般人をからかうなよ。彼が後で、ポケットに大金が入っているのを見つけたときに、驚いて心臓発作でも起こしたらどうする?」
「可哀想なバイトに、少々の施しをしてやったまでよ」
南砂はステーキサンドを囓りながら、すまし顔で言った。
「しかし北斗、何それ?」
「何って、蟹とアボカドのクリームソースパスタだけど」
「そんなスカしたもん食ったってカロリーが足りないでしょうが。脂っ気が足りないのよ」
「別に、僕らは何を食べたって同じだろ。どうせ成長しないんだから──」
「気分の問題でしょうが。がつんとしたモノ腹に入れて気合いを入れるっていう──あんたもよ、西風」
彼女は攻撃の矛先をもう一人に向けた。
「なんでメシ食いにきたのに、ラズベリーパイなんて頼んでるのよ。そんなのおやつじゃんか」
「僕はこれが好きなんだよ。それこそ、気分が上がるんでね」
西風は涼しい顔で、パイをちまちまとフォークとナイフで細かく切っている。ソースが皿に漏れ出して、まだらな模様ができていた。それをつついて絵を描いたりして、なかなか口に運ぼうとしない。
「やれやれ、二人ともだらしないんだから──情けないよね、ほんと」
南砂が深煎りコーヒーをすすりながらぼやく。
そのとき、彼女たちの席に面している歩道で、子供がこてん、と転んで泣き出した。
「ああ、もう──何してるのよ?」
母親が苛立たしげな声を上げる。荷物をたくさん抱えていて、彼女が子供に割ける労力はあまり残っていなそうだった。
「だ、だって──靴が大きくて──」
「我慢しなさい。どうせすぐに大きくなるんだから──あんた、こないだもシャツが着られなくなってたじゃないの。せっかく新調したばかりだったのに──」
母親は明らかにストレスが溜まっているようだった。子供はぐすぐすと鼻を鳴らしながら、立ち上がって再び歩き出す。
「────」
「────」
「────」
その様子を、玖良々三兄妹は無言で見つめている。その表情が少し変化している。それまでのふざけた空気がなくなっている。冷ややかな気配が漂っている。
西風が、フォークとナイフを手放して、卓上のナプキンを手に取って、なにやら折り紙を始める。
すると北斗が顔をしかめて、
「よせ、西風──余計な手出しをするな」
と厳しい口調で言った。しかし西風は動作を止めずに、てきぱきと紙飛行機を折っていく。
そして、それを飛ばした。