インタールード
【TVアニメ「Unnamed Memory」最終回から、電撃の新文芸で刊行中の続編シリーズ「Unnamed Memory-after the end-」に繋がる物語。】
祖国を失い、魔女になった。
死した民を縛る魔法湖を昇華するため、生き続けてきた。
どれほど後悔しても変えられない彼女の過去がそれだ。
だから己の命を、死した人々のためにどう使いきるかを毎日考えた。
いつか死ぬ日のために塔で一人生きてきたのだ。
※
「あれ?」
何か特別なことがあったわけではない。
ただ軽い頭痛を覚えてティナーシャはこめかみを押さえる。
特に体調を崩す心当たりはないが、頭痛は一向に引いていかない。むしろ強くなってくる。
彼女は開いていた本を閉じた。固い足取りで窓際に向かおうとする魔女に、使い魔のリトラが声をかける。
「マスター、どうかしましたか?」
「頭が痛い」
外傷なら魔法で痛みを消してもいいが、原因が分からない頭痛にそれをしていいものか分からない。
一秒ごとに強まっていく激痛にティナーシャは顔を顰める。
「っ……」
その時、頭の中で最大の痛みが弾けた。
全身に無数の破片が突き刺さる記憶。
それがいつも、どこでのものだったのか。
誰が、自分を庇ってくれたのか。
濁流のように押し寄せる記憶。
今ではないどこかの。既に消滅したいくつもの歴史。
頭が真っ白になる。
「マスター!?」
駆けてくるリトラの姿を見ながら、ついにティナーシャは意識を手放した。
※
『今度は君の魂に、新たな記憶を刻んでいこう』
誰のものともしれないそんな声を聞いた。
今になって思えばあれは、世界外から来た呪具――エルテリアの管理人格だったのだろう。
エルテリアは、時読の当主と呼ばれる人間たちの魂に使用記録を刻んでいた。
ヴァルトやミラリス……その他代々の人間たちがそうだ。
ティナーシャもそのうちに一人になるはずで、でも彼女の夫がその運命を断ち切った。
彼は二つのエルテリアを破壊した。あの魔法球が持ちこまれる以前からもう一度、本来の歴史が始まることを選んだのだ。――エルテリアが失われれば、自分も助からないだろうことを承知で。
「……オスカー」
その名を呼ぶ。
ティナーシャは目を開ける。
見覚えがある場所は塔の寝室だ。リトラが運んでくれたのだろう。
頭痛はいつの間にか綺麗になくなっている。彼女は額に手を当てて渾然とした記憶を整理した。
今はもうないはずの歴史の記憶があるのは、最後にエルテリアの破片を浴びたからだろう。ここはエルテリアが存在しない歴史だ。あの魔法球によって助けられた人間も、そこから繋がる血筋の人間も生きてはいない。ヴァルトがそうであるように。
ただ、オスカーはどうなのか。
「今、何年!?」
ティナーシャは寝台から飛び起きる。
オスカーの曽祖父であるレギウスとは、数十年前に契約関係だった。ここまでファルサスはおおよそ同じ歴史で動いている。
そしてオスカーが魔物に攫われたのは確か五歳の時だったはずだ。
彼女は暦から計算しつつ、ファルサスに転移する。
計算もおぼつかないままこっそり城に侵入した彼女を待っていたものは、「王太子が昨晩行方不明になった」という話で騒がしい城内だ。
「ま、まずい」
すぐに殺されてはいない、と思う。殺すならその場で殺されているはずだ。
ティナーシャはこの件についてもともと「魔物がファルサス城都で何人も子供を攫った」としか知らない。
ただ子供を攫うなら、棲み家は城都からそう遠くはないはずだ。城を飛び出した彼女は魔力の探知構成を組む。
普段そうして使い魔を走らせ兄を探しているように、まだ子供のオスカーを探す。
今記憶を取り戻したのはきっと虫の知らせのようなものだ。エルテリアの代わりに自分が彼の危機に間に合わなければ。
必死に構成を広げ、ティナーシャはファルサス国土の中から小さな森を探り当てる。
もう一度、この最後の歴史において。彼の命を先へ繋ぐために。
※
「やっと来たか。待ちくたびれたぞ」
聞き間違いかと思った。
初めて見る彼は小さい。五歳なのだから当然だ。
だから覚えているはずはない。彼女の名を知るはずもない。そのはずなのに。
「どうして?」
言ってからすぐにティナーシャは理由に気づく。
エルテリアの破片を帯びたことが彼女に記憶を残したのなら、彼もそうだ。降り注ぐ破片から彼はティナーシャを庇ってくれたのだから。
自然に零れた涙をそのままに、彼女はしゃがみこむとオスカーを抱きしめる。
「……会えてよかった……です……間に合わなかったらどうしようかと思いました」
「お前は約束を守ると思ったさ」
そう言う彼の言葉にほろ苦さがあるのは、トゥルダールが滅んだことを知っているからだろう。
本来ならば異なる時代を生きる彼らが出会ってしまうのは、ティナーシャが魔女になったからだ。
多くの消滅史でトゥルダールが滅びたように。一度だけこの時代まで美しい国で在り得たように。
魔法の国は今はもうどこにもない。それが事実だ。
ティナーシャは失われたものの重みを噛み締めると、オスカーを抱きしめたまま立ち上がる。
「他の子たちも城都にお送りしますよ。城が大騒ぎでした」
「捕まらないこともできたんだが、捕まった方が他の子供たちのところに連れていかれるかと思った」
「五歳児らしくしろ! 何かあったらどうするんですか!」
「意外とどうとでもなるかと思った」
「私が来たからですね! 馬鹿!」
魔女はオスカーを抱き上げたまま無詠唱で転移門を開く。
驚く子供たちに「おうちに帰れますよ」と言って、ティナーシャは憑き物の落ちたような笑顔を見せた。
※
城に戻り、事情を説明し、ティナーシャは客人扱いを受けながらしばらく慌ただしい事後処理を見守っていた。
塔に帰っていようかと思ったが、オスカーから「絶対残ってろよ」と耳打ちされたので残っている。
そういう彼は周囲に対しては外見通りの五歳児として振舞っているようだ。
母親に抱きしめられ、臣下たちに心配されて照れ笑いをする彼を、ティナーシャはじっと見ていた。
一通りの事後処理が終わって、彼がティナーシャのところに戻って来た時には、既に夕闇の空に薄青い月が浮かんでいた。
「貴方はいつ記憶が戻ったんですか?」
長椅子に並んで座った魔女は、小さなオスカーをひとしきり「可愛い!」と抱きしめていたが「いい加減放せ……」と言われて隣に戻す。
オスカーはぐしゃぐしゃにされた髪をざっと直した。
「あの鳥の魔族を見た時だな。窓越しに妙に青い鳥だな、と思ったら頭痛がし始めた」
「ぎりぎりじゃないですか!」
そんな状態でわざと魔物に捕まったのは相当危ない橋を渡ったのではないか。
ティナーシャは膝に頬杖をついて、小さな彼と目線を合わせる。
「ちょっと言いにくいんですけど」
「言ってみろ」
「オスカー、貴方のその記憶、消してもいいですか?」
城の人間に囲まれる彼を見て、考えて、ティナーシャが出した結論がそれだ。
彼に今までの、消えてしまった歴史の記憶があるのだとしても、今が正史だ。そしてただ一度の子供時代に大人の記憶を持って生きるのは、彼自身にとっても周囲にとってもあまりよいことではないと思う。
ただそれはティナーシャの考えで、彼自身の意思も確認すべきだ。
オスカーは、彼女の目を見返す。
「お前ならそう言うと思った」
「差し出がましいとは思いますけど」
「いいさ。お前が今日俺を助けてくれたという記録は城に残るだろうしな」
そうすれば彼との繋がりは残る。
好奇心の強い彼は、きっと「自分を助けた魔女に直接会ってみて礼を言いたい」と思うだろう。
彼は大人びて微笑む。今は小さな手がティナーシャの前髪を梳いた。
「どうせお前は『魔女だから』なんて言って自分から会いに来ないんだろう。背が追い越す頃に会いに行く」
「塔の試練は緩めませんよ。上れるくらい強くなってください」
「期待しとけ」
たとえその結果、彼が自分以外の女性を選ぶ未来に辿りつくとしても。
彼の子供時代は守られるべきだ。元の歴史ではずっと、彼は「魔女に呪われた重圧と共に生きて来た子供」だったのだから。
ティナーシャは顔を寄せると、彼の額に口付ける。
「次は十五年後ですか、それとも二十年後? 三十年来なかったら私から会いに行こうか迷いますね……」
「見くびりすぎだろう。お前、基本的に弱い男は選ばないくせに」
「貴方のことはよく知ってますから。覚えていてくれて嬉しかったです」
「少しだけ待ってろ。今度は俺が約束を守るから。――愛してる」
子供の声でそんなことを言われて、ティナーシャは涙を堪えて微笑む。
それが彼の本当の思いだと知っているから、次の再会を祈る。
「さようなら、私の王」
そうして広げた忘却の魔法構成が彼を包み、長椅子にもたれかかったオスカーから小さな寝息が聞こえ始めるまで、ティナーシャはずっと愛しい相手を見つめていた。
※
記憶があるということは、魔法湖の定義名も分かるということだ。
一人塔に戻ったティナーシャは窓辺に立つと、青白く照らされた荒野を見渡す。
兄であるラナクを探さなくてもいい。今すぐ魔法湖の昇華ができる。
オスカーの記憶を封じた以上、自分が消滅史の知識を使ってそれをするのは問題かもしれないが、それでも。魔法湖だけでも。
「明日にでも昇華を……」
「――それはちょっと駄目かな」
ティナーシャはぎょっとして振り返る。
いつの間にか部屋の中央に一人の少女が立っていた。
「ルクレツィア?」
転移構成も気配もまったく感じなかった。
にもかかわらず閉ざされた森の魔女であるルクレツィアはそこにいる。それも普段の彼女ではなく、少女姿でだ。
初めて見る姿だ、と思いかけたティナーシャは、しかし不思議な既視感を覚えてすぐに正体に気づく。
既に失われた歴史、ティナーシャが魔女にならなかった歴史において、この姿のルクレツィアと会ったことがある。
外部者の呪具である、忘却の鏡の中に封じられていた時の姿だ。
「どうしたんですが、その外見……」
本能が「用心した方がいい」と囁く。誰よりも親しい相手のはずなのに、異質さを感じる。
ルクレツィアの方も警戒されていることを察したのか、両手を広げて見せた。
「こっちの方が私の本性なんだよね。世界の代弁者が回ってきた時の、なんだけど」
「世界の代弁者?」
不吉な物言いだ。
ティナーシャは、今はもういない青年の言葉を思い出す。
時読の当主だったヴァルトは「世界はエルテリアを突き崩す穴として、当主の魂を解体するようになった」と言っていた。
あの言葉通り、世界そのものに意志があるというなら、エルテリアの破片を浴びて記憶が残ってしまった自分たちが、世界の次の標的になるのではないか。
――だとしたら、自分はともかくオスカーも危ない。
ティナーシャは後ろ手に構成を組む。
ルクレツィアは軽く肩を竦めて見せた。
「何もしないわよ。あんたたちはこの世界の人間として世界外からの干渉を排した。それはきちんとした功績で、だからあんたたちは認められてしまった」
「……不穏な言い方するじゃないですか」
「そうね。でもそれはまだ先の話よ。あんたたちが今の人生を終えてからの話」
「終わりの先があるみたいな言い方ですね」
軽く返した答えに強張りが出てしまったのは、目の前の友人に感じる異質さが増していくからだ。
ティナーシャは記憶が戻ったことをオスカーにしか言っていない。
けれどルクレツィアは何故か、今はもうない歴史においてエルテリアが破壊されたことを知っている。
本当に彼女が世界の代弁者だと言うのなら、オスカーに累が及ぶ前にここを逃れて彼の元へ行かなければ。
ティナーシャは強力な守護構成を組み上げていく。
同時に、ルクレツィアが白い手をかざした。
「あんたにとっても、今は不要な記憶よ」
ルクレツィアの手に集まった力。
それは、精神魔法において他の追随を許さぬ魔女の、力の粋と言うべきものだ。
複雑で、欠片も読み解けない構成。
「ちょっ……と!」
ティナーシャは組みかけの守護構成を展開する。
けれどルクレツィアの精神魔法はその隙間を抜ける。精密過ぎる巨大構成にのみこまれる瞬間、友人の声が聞こえる。
「忘れて、ただの人として生きなさい。どうせいつかは全部思い出さなきゃいけないんだから」
まるで意味の分からない、少し寂しげな言葉。
それはティナーシャの中を通り過ぎていく。
数多の消滅史の記憶を全て眠らせていく。
※
そうして気づいた時、ティナーシャは一人、夜の部屋に立っていた。
他には誰もいない。青い月光が部屋に差しこんでいるだけだ。
「あれ? 私何をして……」
軽く頭を振る。いつの間に夜になっていたか思い出そうとする。
探した記憶はすぐに転がり出てきた。
「あ、そっか。ファルサスで攫われた子供を助けに行って、城に送り届けて帰ってきたんだっけ……」
たまたまそんな話を知って駆けつけただけで、特別なことは何もなかった。
久しぶりに外に出て人に関わったから、疲れてぼんやりしていたのかもしれない。
ティナーシャはどことなくすっきりしない思いながらも、自身を納得させて寝室に向かう。
物語は眠る。再びページが捲られる日まで。
子供が青年になり、塔を上って魔女へ会いに来るまで。
そうして出会った王と魔女は、死が二人を分かつまで仲睦まじく暮らしたという。
今は名前もない、古い御伽噺だ。
※電撃の新文芸で刊行の『Unnamed Memory 6』とは内容に差異があります。